第50号 2011年8月発行
「夏の感謝の気持ち」

こんにちは、失礼します。
生搾りどくだみ青汁酒・十黒梅(じゅっこくばい)の食援隊、細川泰伸です。
いつもいつも十黒梅をご愛飲頂きまして本当にありがとうございます。
またこの度は、手作り新聞「イキイキ元気倶楽部通信」を
お手に取って頂きまして心より感謝申し上げます。

8月に入り、夏の高校野球が始まりました。夏!夏!夏!いよいよ夏本番です!
「がんばろう日本!」を合言葉に、白球を追いかける高校球児の情熱あふれる、
さわやかでひたむきなプレーに一喜一憂しております。

地元の高校の活躍も気になりますが、
今年は、3月11日の東北地方太平洋沖地震という大惨事から、
一生懸命立ち直ろうとする岩手・宮城・福島の
3県の代表校の活躍に期待しております。

震災から5ヶ月が経った今でも、その傷跡はまだ癒えることなく、
復興もまだまだ進んでいない様子が
遠くこちら高知まで、メディア等を通じて、痛々しく伝わってきております。
また、ただでさえ大変な時に、新たに食品の汚染等の大きな難題が起こり、
復興までの道の険しさが日に日に増しているようにも感じております。

あるテレビ番組で、被災された農家の方が、
「起こった事は変えようがない、これを機に強い農業にするんだ」と
いうような力強い言葉をおっしゃってました。
必死に立ち上がろうとするその姿勢に、思わず目頭が熱くなりました。
月並みな言葉で、本当に申し訳ございませんが、どうか一日でも早い復興を、
皆様のご無事とご健康を心より切にお祈り申し上げます。

さて今回は、私が経験した夏の中で、
一番厳しかった夏、一番きつかった夏、
一番感謝の気持ちでいっぱいになった夏のお話をさせて頂きます。

少々、痛々しい話になりますが、どうかお許しくださいませ。

それは、私が28歳の時の夏、
以前、勤務していた父の食品加工会社の工場内で、
私の不注意で、右手の人差し指が機械に挟まり、
第一関節から先が飛んでしまう大事故を起こしてしまいました。

飛んだ先の指は、近くにちょうど母がおり、
ビニール袋に入れ、周りを氷で冷やしてくれました。
母は、看護婦の経験があった事から、とっさのその判断で、飛んだ先は無事でして
私はすぐに、救急車で病院に運ばれ、指をつなぐ手術をする事になりました。

手術は、指の血管をつなぐという非常に難しい手術です。
血管は、髪の毛程の細さだとか、その血管の周りを縫い合わせるというのです。
かなり高度な技術を要するようで、
その手術ができる先生が近くの病院に勤めていた事が、
運が良かったとしかいいようがありません。

難しく長い手術は、お陰様で無事に終わり、私は集中治療室に運ばれました。
無事に血管がつながったとはいえ、
指先の血管は非常に細く、いつ切れるか分かりません。
また、温度に影響を受けやすく、冷たいと血管が収縮し、
それで血流が止まり、指先が壊死する事もあるそうです。
そのような理由から、しばらく冷房をかけてない集中治療室で、
入院生活を送る事になりました。

右手の人差し指以外は、全くの健康体であるのに、
一日中、体を動かしてはならない状態でベッドにいるのは、本当に苦痛です。
部屋は真夏の本当に暑い季節というのに、
冷房を入れる事ができなければ、窓を開ける事もできません。
暑さと苦痛の毎日は本当にきついですし、
何よりも、私の不注意で仕事でも皆に迷惑をかけ、
本当にすまない気持ちでいっぱいで、心身ともにふさがっていました。

そんな中、毎日のように見舞いにきてくれる母が
「仕事頑張り過ぎて、神様がちょっと休みなさいと言うがよ」という言葉に
気持ちが少しだけ楽になった事を覚えています。

入院中は、寝ている間に、胸につけている心電図へのコードが取れ、
看護婦さんが、心臓が止まったと思い、夜中に私の横に駆けつける事件など、
いろいろとお騒がせする事件があったそうです。

そんな多々ある事件の中で、生死に関する大きな事件がありました。
ある日、いつものようにベッドの上で先生の治療を受けた後、
ウトウトっとしてきて、軽い眠りにつきました。

ハッと気づいた時、右手の人差し指から、いつもより多量の出血をしていました。
(血流が大切なため、指先に金属管を入れ、
常時ある程度の出血が必要としていました。)

すぐに、ナースコールのボタンを押し、駆けつけてくれた看護婦さんに
いつもより出血が多い旨を伝えました。
看護婦さんも、私と同じように感じたようですが、
この治療は、ある程度の出血が必要なので、少し様子を見る事になりました。

しかし、出血はおさまるどころか、激しくなる一方です。
右手の下に敷いている防止吸収シート(紙オムツを使ってました)が吸収しきれず、
ベッドまで血があふれるようににじんできました。

再度、ナースコールのボタンを押し、看護婦さんに見てもらいます。
看護婦さんも、通常ではない事を認識したようで、すぐに先生を呼んでくれる事に、
しかし、先生は多忙なのか、なかなか私のベッドまで来ません。

そうこうしている内に、事態は急変します。
すこし目の前が白くなったように感じ、次の瞬間、
意識が飛んでいるように感じました。
どこか、頭の後ろの方で、「出血多量死」の5文字が浮かびました。

フワっ~、わけが分からなくなり、息がとまりそうになった瞬間!
口から何かグワっと強いものが入ってきて、ハッと意識が戻りました。

気がつくと、酸素吸入器を口にして
「ハァー!ハァー!ハァー!」と息をしている自分がいて、
その前に、妙にさっぱりとした先生が目の前にいるではありませんか、
意識が戻った2~3分後、先生は散髪に行っていて、
それで少し遅くなった事に気づきました。

先生!お願いしますよ~!と思うと同時に、
これも私の運の良さというか、ツキというか、何かあると感じました。
もし、何かの間違いで、先生が遅れていたら・・・ もしかしたら私は、そこで・・・
そんな風に思ってなりません。

2ヶ月間の集中治療室、一ヶ月の一般病棟室での入院生活を経て、
無事に指はつながり、退院する事になりました。

この3ヶ月を振り返った時、冷房もなければ窓も開けれない真夏の集中治療室は
本当にきつかった思いがいっぱいでしたが、

見舞いにきてくれた友人・知人・親戚、
それから毎日のように見舞いに来てくれた母、
毎日、お世話になった看護婦さん、看護士さん、
そして、しっかり手術を成功させてくれた先生、
多くの方々のお陰で、無事に退院ができた事に感謝の気持ちでいっぱいです。

それから、自分には運やツキがあることと信じ、
できる限り、マイナスの言葉を使わず、プラス思考で、
これからの人生を前向きに頑張っていきたいと感じるようになりました。

今年で、あれから13年が経ちました。
毎年、暑い夏になると、その大怪我のことを思い出します。
その度に、周りの方々への感謝の気持ちを大切にしたい、と心から感じます。

それでは、失礼します。

細川 泰伸